これは発音や聞き取りの問題ですが、近い将来には機械翻訳が完備されるでしょうから、本質的な問題にはならないでしょう。

ただ、そもそも発音や聞き取りの問題をどう捉えるのかというのは様々な見方があろうかと思います。

一つには、各人の能力や技能の不足の問題であるという捉え方があります。この場合には、いかにして各人の能力を向上させるかというのがテーマになってくるわけですが、今のところは常識的な学習時間内において非ネイティブの成人にネイティブレベルの能力を身につけさせることはできません。将来的には分かりませんが、現状においては、この問題認識は適切なものとは言えないでしょう。

もう一つの考え方としては、通常的に身に着けることが困難な技能であるということを認めた上で、人間の身体的な限界として受け入れようという捉え方もできます。この場合には、目が悪かったり、耳が悪かったり、病弱だったりというような他の身体的な問題と同様に取り扱おうということになります。この場合には現実的な対処が可能ですが、可能というだけで現実の制度はそのようにはなっていません。この捉え方においては、主要な問題は社会制度の不備にあり、Englic等の言語側で処理しようとするのは筋が違うということになります。

また、別の考え方として、発音は各国/各人の個性だと考えようという捉え方があります。この場合には聞き取り側に大きな負担が生じてしまうわけですが、その負担はみんなで分かち合おうということになります。Englicはこの立場であり、早口禁止というのも、この考え方に基づいています。

Scientific Englicでは発音の問題は取り扱わないことにしたいと考えています。文章が正確に伝わりさえすれば、手段は何でもかまわないという立場です。正確な伝達には送り手と受け取り手の双方の努力が不可欠になりますので、相手が聞き取れないような早口は自然と選択肢から除外されることになります。

さらに、本書ではもう一つ重要な事実が示されています。

それは、人々は自分がどうしても知りたい情報であるのならば、聞き取りの労力を惜しまないということです。つまり、聞き取りづらい発音は聞き手に負荷をかけるわけですが、その負荷がそのまま問題になるのではなく、聞き手にとっての内容の重要性との比較によって、聞いてもらえるかどうかが決まるというわけです。

このことは発音のみならず、文章においても同様です。人は自らが知りたいという情報の取得には労力を惜しみませんが、そうでない情報は金を払ってでも拒否することがあります。人は自らが知りたいことしか知ろうとはしないものです。

また、読解力についても同様であり、自らの興味がある情報には高い読解力を示す一方で、興味のない情報だととんでもない読み間違いを平気ですることがあります(多くの研究者は査読で経験があると思います)。さらに悪意がある場合には、曲解としか言いようがないような解釈をすることまでありえます。

この人間の傾向は原理的には訓練によって克服可能なものであると思われますが、現実的に克服している人はほとんどいません。発音の問題と同様に、人間の身体的な性質上、実際には無理なことだと考えておいた方がよいでしょう。

この問題は言語側で何とかなるという話ではありません。

Scientific Englicでは、情報を知りたいという人に正確に情報が伝達されることを一つの目的にしています。知りたくないという人に情報を伝えることまでは考えておりません。それは人間の性質上、非常に困難なことだからです。