昔、Basic Englishというものがありました。単語の数を制限して代わりに組み合わせで補うという方針によって非ネイティブ用の新しい英語を作ろうとする試みです。学問的にはそれなりに成功した手法であったと思われますが、広く世に広まることはありませんでした。
語数制限の手法は、Basic Englishに限らず、語学学習でよく用いられています。学校教育においても語数制限は行われています。
鈴木氏の主張は、これに真っ向から反するものであり、ネイティブにとっては易しい「子どもの英語」こそが、逆に非ネイティブにとっては難しいものであるとしています。それ故に、Englicではそういう表現は禁止しようということになっています。
この鈴木氏の主張は、自らの経験に照らして考えてみると、正しいと思われます。また、機械が発達した現代においては、記憶部分は機械が補ってくれますので、語数を制限することにもはや意味はなくなっています。
似たような事例には、例えば、漢字の問題があります。この問題については、中国文学者の高島俊男氏などが論じており、一般的に「易しい」とされているものは本当に易しいものであるのか、また、常用漢字などの導入は本当に正しいことであったのかというのは大いに議論の余地があるものです。
また、かつては、日本語の表記法は機械化の流れの邪魔になっているものであるから、漢字もカナも全てやめて、ローマ字の分かち書きで表記するべきであるという主張がありました。現在、機械化の時代は実現したわけですが、ローマ字の分かち書きで書いている人は誰もいません。
技術は日々進歩するものですので、人間がその時の技術に合わせるべきという近視眼的な考え方は根本的に間違っています。「ローマ字の分かち書き」は、その一例になるでしょう。また、「常用漢字」についても、活字の問題が解決した現在の視点から見ると、百害あって一利なしという結果になっているというのは、もはや多くの人が認めるところなのではないでしょうか。
さて、Scientific Englicにおいては、多義的な言葉を非推奨とすることで、この問題に対処したいと考えています。
言葉はなるべく限定的なものを用いた方が意味が明確に伝わります。論文等で易しく書けることをわざと難しく書いているというような批判があることがありますが、その時の「易しい」というのは本当に易しいのでしょうか、単に日常用語に近いというだけではないのでしょうか。あることを表現するのに、意味が限定された「難しい」言葉と広い意味で解釈可能な「易しい」言葉がある時には、迷わずに意味が限定された「難しい」言葉を使うべきです。それが正確な伝達につながります。
さらに根源的な話として、自然科学では言葉を増やすことが大切だということがあります。自然の法則自体は出来るだけシンプルに記述できることが望ましいわけですが、実際にそれを人間が応用して自然を解釈しようとする際には、人間に合わせて多様で正確な言葉が必要になってきます。「ある現象に対して、その解釈の数の多さが、その現象に対する人間の理解の深さを示している」というのは物理学者ファインマンの見解(意訳)ですが、多様な「解釈」を記述するには、それに応じた言葉が必要になってきます。
Scientific Englicは語数制限に反する立場を取ります。むしろ、いかにして自然言語から離れて無理なく言葉を増やしていくのかという方向性で考えていきたいと思っています。
コメント