自然科学の分野において論文執筆が創作活動であるのかどうかというのは様々な意見があるものと思われます。
自然科学系の論文は科学的な事実を記すものであるため、思想や感情を表現したり、フィクションを製作したりする種類の創作活動とは異なるわけですが、プログラムのコードを書くような意味での創作活動であるとは言えると思います。
プログラムのコードは要求される仕様の中で最適なものが理想とされますが、実際には書き手の技量や時間的制約などの問題があるために、最適なものが得られることは少なく、結果にばらつきが生じます。
そもそも最適化作業を創作と呼ぶのかどうかというのは難しいところがありますが、通常、創作と呼ばれている作業の多くは最適化に該当しますので、ここでは創作と考えることにしましょう。また、最適化の失敗によるばらつきを創作の自由性と呼ぶのかどうかについても同様です。
また、仕様や目的の設定自体に創作性があるということも考えられますが、それは執筆自体とは別の作業になりますので、ここでは切り離して考えることにします。
さて、これらの前提の上で、事実を伝達する報文に自由はあるのでしょうか?
おそらくは「ない」と考えるのが生産的な立場だと思われます。本来あるべき理想の最適解は何かしらあるはずで、論文執筆の作業はそれに近づけていく最適化の作業だと考えるわけです。
結果のばらつきによる「自由性」は失敗によるものと解釈できます。失敗は自ら望むものではありません。
この観点からすると、Scientific Englicは最適化の作業を助けるための道具の一つということになります。