Scientific Englic開発メモ

Scientific Englic (Scientific English-like language)の開発についてのメモです。細かいことに拘らずに気楽に書いていきます。

高島俊男先生によると、中国語の文章は「文言(ぶんげん)文」と「白話(はくわ)文」とにわかれるようです。「文言文」は官僚的な書き言葉で所謂「漢文」のことであり、「白話文」は日常的な話し言葉を文章にしたものです。

「文言文」は中国語を知らない日本人でも習得するのが容易であるのに対して、「白話文」の方は中国語や中国文化を知らないとどうにもならない性質のものであるらしく、漢文が得意な人であっても「白話文」はよく理解できず、頓珍漢な解釈や翻訳をしてしまうことがあるようです。

このような文語と口語の乖離現象は、中国語に限らず、日本語や英語でも見られます。一般化すると、言語は普遍性と地域性の二面性を有していると言えるでしょう。

普遍的な「文言文」と地域的な「白話文」は果たして同じ言葉なのでしょうか?

かつて「文言文」は、中国語の一種であると同時に、東アジア地域の国際語でもありました。今の英語に似た立場です。そのように考えると、「文言文」は必ずしも中国語ではなく、中国語に似た国際語だとも解釈できます。

むしろ、本来は形而上的な国際語というものがあり、それがその時の国際的な政治状況を反映して中国語や英語に似た形態で使われてきたと考えるのが自然なのかもしれません。

そのように考えると、「文言文」はScientific Englicの方言の一つだとも考えられます。

自然科学の分野において論文執筆が創作活動であるのかどうかというのは様々な意見があるものと思われます。

自然科学系の論文は科学的な事実を記すものであるため、思想や感情を表現したり、フィクションを製作したりする種類の創作活動とは異なるわけですが、プログラムのコードを書くような意味での創作活動であるとは言えると思います。

プログラムのコードは要求される仕様の中で最適なものが理想とされますが、実際には書き手の技量や時間的制約などの問題があるために、最適なものが得られることは少なく、結果にばらつきが生じます。

そもそも最適化作業を創作と呼ぶのかどうかというのは難しいところがありますが、通常、創作と呼ばれている作業の多くは最適化に該当しますので、ここでは創作と考えることにしましょう。また、最適化の失敗によるばらつきを創作の自由性と呼ぶのかどうかについても同様です。

また、仕様や目的の設定自体に創作性があるということも考えられますが、それは執筆自体とは別の作業になりますので、ここでは切り離して考えることにします。

さて、これらの前提の上で、事実を伝達する報文に自由はあるのでしょうか?

おそらくは「ない」と考えるのが生産的な立場だと思われます。本来あるべき理想の最適解は何かしらあるはずで、論文執筆の作業はそれに近づけていく最適化の作業だと考えるわけです。

結果のばらつきによる「自由性」は失敗によるものと解釈できます。失敗は自ら望むものではありません。

この観点からすると、Scientific Englicは最適化の作業を助けるための道具の一つということになります。

新しいものを作る際には過去のものとの互換性が問題になります。互換性がないものには乗り移りにくいため、互換性は重要です。

Scientific Englicでは出来る限り英語との互換性を確保したいと考えています。

Scientific Englic styleの英語としても記述が可能であり、それは少し厳格で癖があると感じられる程度のものでなければなりません。もちろん、そのままジャーナルに投稿できるものである必要があります。

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